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山陰労災病院誕生の頃

 令和5年に本院は60周年を迎えます。開院した昭和38年頃の建物は古くなりましたので、南側に新しく建築中です。約2/3部分はすでに出来上がり、稼働していますが、すべての完成は令和5年の夏頃で、病院の中身のほとんどが新しい建物に移ります。そのため、今の建物が見られるのもこの2、3年です。古い建物に思い出や愛着のある方もいらっしゃるものと思います。60年の区切りに本院の設立の経緯をまとめました。古い写真を交えて紹介します。

  • 全国の労災病院の設立
     戦前の労働者の保護は極めて不十分なものでした。戦後の民主化の流れに沿い、労働条件の最低基準を示した労働基準法が昭和22年に公布されました。同時に労働者災害補償保険法という法律もでき、業務による負傷や病気などに対して補償するとともに、治療後の社会復帰を促す療養施設などの設置や運営を行う労働者福祉事業について定められました。
     この法律に従って労災病院が設立されることとなりました。第1号は昭和24年に九州労災病院が、その後、東京労災と栃木珪肺診療所が開設されました。昭和26年には関西地区の尼崎市に開設が決定され、これが契機となり、全国の工業地帯や炭鉱、鉱山などの労働者の多い地域で労災病院誘致の気運が高まりました。その結果、昭和27~29年の3年間に16という多くの病院の設置が決定されました。
  • 労災病院の米子への誘致
     昭和29年頃、米子市に労災病院設立の声が鳥取大学医学部において上がりました。
     ところが、前述のようにわずか3年間に16病院の設立を決定した結果、1病院当たりの予算は低額となり、追加予算を必要としたため完成までに長い年月を要することとなりました。そのため30年度以降は1病院当たりの予算を増やし、短期間で完成させる方針に変更されました。このため新設病院数は限られて、優先順位の高くなかった米子市設立は頓挫しましたが、昭和34年鳥取県は米子市と共に労働省及び労働福祉事業団に対して、労災病院の設置を正式に要望しました。それを受けて、昭和35年の労働福祉事業団による現地調査の結果、皆生温泉が適地と決定しました。地元米子市は建設用地として一万坪を提供するとともに、温泉の供給、水道の配管、電力設置などに全面的に協力することとなりました。
  • 山陰労災病院建築、開院準備
     昭和37年1月19日に地鎮祭、起工式が行われました。建設予算は3億5千万円、医療機械器具や什器などが6千5百万円だったそうです。
     昭和38年1月、職業性呼吸器疾患の大家で、三井産業医学研究所長であった石西進先生が院長に発令され、2月1日には労災病院開設準備事務所が設置されて、開院準備が始まりました。当時、「労災」という言葉は一般的ではなく、「老災」や「労済」などと書かれたり、老人専門病院と間違えられたりしたそうです。
     病院名は開院直前まで「鳥取労災病院」でしたが、山陰地方唯一の労災病院という理由で、「山陰労災病院」に変更されました。
     病院は昭和38年4月に完成しました。
  • 山陰労災病院開院
     しかし、実際の開院は、この年の1~2月に断続的な降雪と長期間の異常低温が続き、38豪雪と呼ばれる大雪害があったため、資材や設備機器の搬入が間に合わず6月に遅れました。
     設置の条件の1つであり、売り物でもあった温泉は、米子市がボーリングをしましたが湧出せず、皆生の既設の泉源から導入されることとなりました。
     昭和38年6月1日に開院式が新病院の外来待合で催されました。労働省、建設省、厚生省など本省や鳥取県、島根県、米子市、大学、医師会、工事関係者など多岐にわたる215名の招待者の出席を得て盛大に挙行されたようで、その様子が開院式アルバムに残されています。
     診療は、6月5日 内科、外科、整形外科、皮膚泌尿器科、眼科、耳鼻咽喉科、理学診療科の7診療科、病床数200床をもって開始されました。

 古い建物は東側のA棟完成後、順番に取り壊され、昭和38年の開院時の建物はすべてなくなります。ここに掲載した写真以外の懐かしい写真を病院の新棟入り口スペースに展示しています。受診の折にでもご覧頂ければ幸いです。
 勤労者医療に加えて、地域の健康を守り福祉の向上に貢献する病院として、令和5年の夏にはすべての病棟が新しい建物に移ります。どうぞ新しい病院にご期待ください。

開院の頃の北からの航空写真 中央の屋上にサンルームを備えた6階建て建物が病院で、周辺はほとんど田畑でした。
開院の頃の西北からの病院遠景 稲掛けの後ろが正面玄関でした。
   
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